イマーシブエリアについて/異世界観光キュレーター・イマーシブエリアディレクターさわくん
さわくん(本名:澤 海渡)
ランニングホームラン株式会 CCO(Chief Concept Officer)
自走ブランディング開発責任者
I am CONCEPT.編集長
クリエイティブ就活を問い直す会 発起人
RULEMAKERS DAO 理事
中高6年間引きこもり生活。その後一念発起し、偏差値18から1年で早稲田大学教育学部に現役合格。学生時代に延べ3000人以上の人々にコーチングを提供。そこでの経験を元に中高生向けの探究学習教材を出版、多数の中高へ導入する。大学卒業後、2022年にランニングホームラン株式会社に入社。オウンドメディア、ブランディングメソッド、就活事業など数々の自社事業を立ち上げ新卒2年目にして役員に就任。プライベートでは12歳年上の嫁と12歳の娘と100人シェアハウスでカオスに生活。自身のコンセプトは「天上天下唯我独尊」。この世全ての人々のクリエイティビティを愛し、快放して回るのが人生の趣味。
ごあいさつ
初めまして、異世界観光キュレーター・イマーシブエリアディレクターのさわくんと申します。普段はコンセプトメイカーとして、未だ世の中にない未知のプロジェクトの根幹を言語化、実現に向けて伴走することを生業として生きながら、自身もアーティストとして様々なアートプロジェクトを立ち上げてきました。
今回私は、体験小説プロジェクト「RingNe」の2章目にジョインし“縦の異文化体験”に焦点を当てたイマーシブツアー・異世界観光を企画しました。
SDGsやサステナビリティなどが叫ばれる昨今。世の中は「社会にとって“良い”こと」に向けてアクションが積み重ねられています。ただ一方で「社会にとって“良い”こと」とは何か?という部分が問い直されないまま、何かの正しさが先鋭化し、別の価値観が息苦しくなることも多くなっているように感じます。今必要なのは、「社会課題を解決すること」「社会をより良くする営み」に加えて「そもそも何を課題とするのか」「課題が解決した先に何を望むのか」を考えることだと私は思います。
今回、キュレーターを担当した「異世界観光」では、あえて「植物を尊重する」ことに人為的に振り切った原作小説に描かれている「ダイアンサス」という植物主義過激派のDAOの世界観を演出し、その世界に入り込む体験をご提供します。
極限まで「相入れない正しさ」を感じる中で「自分が無意識に抱いている正しさ」を自覚し、その中で「どうすればより良い社会は描けるのか」を考えるツアー、それが異世界観光です。これまでと通底するテーマ、そしてこれまで培ってきたイマーシブツアーの手法で実施する、僕の人生前半における集大成的なプロジェクトとして企画しました。
縦の異文化体験
よりコンセプチュアルに。2045年の未来を作り込み、文化としての解像度を上げていきたい。
僕は昨年のRingNe Festivalに参加した際、「文化体験」「アート」「エンタメ」3つの観点を複合化し「世界」そのものを体験する超巨大インスタレーション作品としての本プロジェクトの解釈可能性に対して魅力と可能性を感じました。
「文化体験」の強みは、その体験に詰まった「歴史的文脈の重み」であると私は考えます。例えば茶道であれば、「お茶を点てる」プロセスの中に「なぜその行為をするのか」一つ一つに意味があり、その意味を積み重ねることで「茶道」という文化が立ち現れる構造にあります。私たちはただ「お茶を頂く」行為そのものではなく、そうした「積み重ねられた歴史」を頂くことに畏怖の念を抱き、文化体験として成立します。
一方そうした「歴史的文脈」は存在する一方で「文化体験」として実生活から切り離される以上、「空間全体としてのストーリー」を経験することや、「問題提起」としての側面は弱くなる傾向にあると思います。
「アート」の強みは、それを見る/体験することで今はまだ存在しない「問題を提起する」ことにあると私は考えます。例えばデュシャンの「泉」であれば、便器を美術館に展示するという行為を通じて「芸術の価値」に対する問題提起をしています。
一方そうした「問題提起」に強みを発揮する一方で「歴史的文脈の重み」を実感させることや、「空間全体としてのストーリー」を経験させる側面は弱くなる傾向にあります。
「エンタメ」の強みは、「空間全体としてのストーリー」を体験させられることにあると私は考えます。近年流行りの「イマーシブシアター」であれば、会場全体で演者が「仮想空間の登場人物」として振る舞い、音響・照明などを駆使して現実と非現実の境目を曖昧にさせる体験を提供することが可能となっています。
一方で、エンターテイメント性を重視する場合「歴史的文脈」が捨象されることや、アートとしての「問題提起」が弱くなる傾向にあると思います。
私は、異世界観光のキュレーターディレクターとして、これら3つの側面を複合化させることで「歴史的文脈の重み」を持ちながらも「空間全体としてのストーリー」を体験し、最終的に「問題提起」を感じることができる体験小説のポテンシャルを今年は深化させることにしました。
体験小説における、このコンセプトを私は『縦の異文化体験』と名付け、再解釈しています。
海外での異文化体験が「ヨコ(空間)の移動」によって味わえる異文化体験だとするならば、異世界観光での異文化体験は「タテ(時間)の移動」によって味わえる異文化体験です。その時空間で催されている未来の世界の住民たちの異文化を、実際にその世界の住民たちに混ざり体感することで、その土地でしか味わえない異日常を体感することができます。切り分けると、その時空間特有の音楽、衣装、儀式、交流、食などがありますが、あくまでそれらの総体としての異文化体験がその楽しみの根底にあります。
「ヨコ(空間)の移動」=海外での異文化体験がまさにそうですが、海外という「土地」は“緻密な設計“はされてはいません。そこでは、現地の方々が暮らしを営み、その土地で代々引き継がれている祭りを営みとして実施しています。
そして、観劇のようにただ座って鑑賞するわけでもなく、ゲームのように決まったルールに縛られて何かをこなすのでもなく、そこではただ、土地で暮らす人と同じ食事を囲む、語る、踊る、伝統の儀式に参加する。自由にその現地での“あたりまえ“を体験することが、かけがえのない経験になっていきます。
今回は、「タテ(時間)の移動」によって現れる営みの世界に入り込む体験です。現時点では、どこの土地でも存在しない伝統、慣習、暮らしを緻密に設計し、その空間を自由に楽しんでもらう。
そうした土着性とSFによる新規性を両立させる、本来だと両立し得ない様々な要素を両立させる全く未知の体験がここにあることを私は約束します。
全ての人にとって幸福だと思えるような、
そんな社会のあり方を描くことはエゴなのだろうか。
バブル崩壊、パンデミックに震災、環境破壊。世界は悪化の一途を辿っているように感じます。そして誰も答えを見出せない中で、何かの答えに縋りたい気持ちが一つに集まり「理想」や「正しさ」が先鋭化していく世の中に私たちは突入しているのではないでしょうか。それは、かつての革命のように何かの序列が入れ替わるだけ。結局何かの価値観はこぼれ落ちていっているように感じます。
「全ての人にとって幸福だと思えるような、そんな社会のあり方を描くことはエゴなのだろうか」そう思う一方で、私は決して諦めたくはないと思っています。それがどれだけ理想論だと呼ばれようとも、僕はそれを考え続けたい。
今回原作小説で描かれている「植物主義が先鋭化した、ユートピアでありディストピアであるこの世界」は、僕にとってずっと向き合い続けてきた問いでした。何かの幸せ、何かの正しさが定義されることによってそれが先鋭化されある種の強さや美しさが生まれる反面、そこには矛盾と歪さが生まれる。このどうしようもない人間と社会の中でどう生きていくべきか、制作のプロセスを通して問い続けてきました。
答えはまだ見えません。でも、一つ向き合い続ける中で思ったのは僕はそんな世界を排除したいのではなく、諦めたくないのだということだと思います。そんな問いと自分なりの変化のプロセスがこの世界に詰まっています。ぜひ考えてみてほしいのです。今の世界の突き進む先にある限界を。そしてその限界の先にある、答えとも呼べない何かに。